翔べ宙太(みちた)!13  日々の生活の積み重ね


 家に着いたのは5時過ぎだった。
 その日はとうとう草心の所へは行けなかった。
 当然宙太が来るはずだと思っていた草心は、宙太に何かあったのかと心配になり、うす暗くなってから宙太の家へ尋ねてきた。

 「宙太、いるか?」
 「あっ、和尚さんだ!」
 「宙太、今日はどうしたんだ。来ると思って本を用意していたんだ」

 宙太は母と食事をしている最中だった。
 「和尚さんごめんなさい。算数のテストができなくて、残されていたんだ。それで5時過ぎになって、行けなくて・・・ごめんなさい」
 「いや、いいんだ、いいんだ、それは。でも宙太が昨日とっても急いでいたような気がしたから、この本を持ってきたんだ」
 そう言うと、草心は手に持っていた本を宙太に渡した。
 表紙がすり切れて、そうとう使い込んだような古い本だった。

 宙太はそれを手にとってパラパラと3〜4枚めくって見た。
 「こんどのは星がたくさんあるね、難しそうだね」
 「そうだよ、それはとても難しくて、私も解けないのがたくさんあるんだ。プロの先生達が勉強する本だよ。貸してあげるから、今夜見るといいよ」
 「ワッー、ありがとう。俺食事済んだら、寝る時間まで見るよ。ねー、母ちゃんいいだろー」

 母の恵美は「ありがとうございます。いつも宙太がお邪魔ばっかりしているそうで」
 「いや、いいんですよ。こちらもとっても楽しいですよ。じゃーさようなら。宙太、あんまり遅くまで起きてちゃだめだよ」
 「うん、ありがとう」宙太は大急ぎで食事を済ませた。

 すぐに本をとって見ようとする宙太をさえぎるように、
 「お風呂に入ってからにしなさい」と母が言った。
 「えっー、お風呂はいいよ。今日はとても忙しいんだ」
 「ダメ、一日の終わりはお風呂に入って体を綺麗にするの。決まっている事は、つべこべ言わずに早くしなさい!」
 宙太は今日学校で担任の二宮先生に言われた事と同じような感じがした。

 宙太は黙って、急いで脱いだ。そしていきなりドボーンと風呂に飛び込んだ。
 次の瞬間、「わっー」と大声を出して、風呂から飛び出した。
 「かーちゃん、まだ水だよ! もうー冷めてえー」
 「沸いてると言ってないだろ! 気持ちばっかりあせるから、そんなことになるんだよ。気ばかりあせってないで一つ一つ確認しなさい」

 宙太はぶるぶる震えながら、急いで体を拭いた。
 とりあえず風呂が沸くまで、あわてて毛布にくるまった。
 蓑虫みたいに毛布に包まったまま、先ほどの本を真剣な顔で見ていた。

 母はその姿を見て、苦笑しながら「この子ったら・・・」
 小さい頃から好きな事には、異常な集中をする。周りのことが一切目に入らない。そのようなところがとても心配だった。
 しかし心の奥で少し誇らしくも感じていた。

 風呂が沸いた。
 「宙太、もういいよ、沸いたよ」
 「はあーい」宙太は毛布から飛び出して、風呂場へ行った。
 お湯の熱で風呂場全体が暖かい。
 「今度は大丈夫だ」そう思って、またいきなりドボーンと飛び込んだ。
 次の瞬間、  「あちちちっー」また飛び出した。
 「あっー死ぬかと思った」
 水を勢いよく入れながら、力いっぱいかき回した。
 ドタバタやっている騒々しい音を聞いて、
 「何やっているの、宙太、少し落ち着きなさい」母が言った。

 今度こそと宙太はお湯につかった。
 「あっー、ひどい目にあった。俺ってあわてんぼうだなー。あわてたら上手く行かないんだ」
 宙太は小さくつぶやいた。

 宙太は50まで数えた。50でさっと風呂から上がり、着替えを済ますと小さなソファーに座りながら、先ほどの問題を見た。
 難しかった。
 「難しいなー、考えなきゃ」宙太は思った。
 10分、15分とじっと考えた。
 石はたくさんあるけれど、石の欠陥をつけばいいことは今までの経験で分っていた。
 宙太は頭の中では、いくらでも置いてはこわし、置いてはこわし、石を置いたその軌跡は正確にたどる事ができた。
 宙太の意識の中では、星を動かして、悪い正座を蒸発させる戦いなのだ。

 20分ほどで、最初の問題が解けた。
 次の問題、次の問題と5問ほど解いた。
 すでに9時が過ぎていた。
 宙太は本を片手に持ったまま、ソファにもたれて眠ってしまっていた。


 その晩、夢を見た。
 ジュピターといっしょに走っていた。
 空の中を、この前の神様に会うために走っていた。
 しかし、走っても走っても父のいるあの場所が近づいてこない。
 遠くの方にかすかに見える。だんだん疲れてきた。
 ジュピターもハーハー大きな息をしている。
 「ジュピター、頑張れ!」
 宙太はそれでも懸命に走ったが、近づかない。
 遅れてしまう。どうしよう、神様との約束は3日間だ。明日までに着かなかったら、約束を破ってしまう。

 ジュピターがとうとう息を切らして、フラフラになってきた。
 宙太は止まった。
 ハーハー大きな息をしながら、ジュピターを抱きかかえた。
 「ジュピター、大丈夫か。ごめんなーこんなに疲れさせて」
 ジュピターがヒューヒュー申し訳なさそうに鳴いている。
 「どうしよう、遅れてしまう」
 宙太はジュピターを抱えて歩き出した。
 ハーハー大きな息をしていた。

 「宙太! 宙太! 宙太!」母の声が聞こえた。
 「母ちゃん! どこにいるの、どこにいるの」
 宙太、宙太と言う声とともに、宙太の背中が揺れた。


 「宙太、どうしたの、大きな息をして」母が宙太の顔を心配そうに見ていた。
 「あー、母ちゃん・・・夢か」
 「夢を見てたのかい」
 「うん、父ちゃんの所へ走って行ったんだけど、なかなか着かないんだ。ジュピターもクタクタになったんだよ」
 「朝まで、まだ時間があるよ。さあ寝なさい」


 朝がきた。学校へ着いたら、1時間目の授業の前に、担任の二宮先生が言った。
 「今日は突然の事ですが、先生達の会議が急きょ午後から開かれる事になりました。そのために給食が終ったら、全校一斉に帰ります」
 宙太は「やったー」と嬉しくて、飛び上がりたいほどだった。衝動をじっと抑えていた。
 昨日は不運だった。
 今日はラッキーだ。
 宙太は昨日寺へ行けなかった分まで、今日取り戻せると思って、嬉しくてたまらなかった。
 お昼になるまでの午前中の授業がとても長く感じられた。
 給食が終るや否や、全力で走って帰った。
 そして、いつものようにジュピターを連れて、草心の元へ走っていった。

 「和尚さーん」宙太は大きな声で呼んだが、誰もいなかった。
 縁には碁盤が置いてあった。その上に碁笥が二つきちんと揃えて置いてあった。
 御堂の中は薄暗く、静まり返っていた。