翔べ宙太(みちた)!32  大空名人と日之輪教授


 宙太は天道寺の居間にいた。
 ソファーに座ってリマ婆さんの手作りの草もちをほおばっていた。
 ジュピターは境内の庭を走り回っていた。

 草心が入ってきて、テレビをつけた。
 「宙太、これから大空名人が出るんだ。名人はどんな話をするんだろうね」
 「うん、俺、夕べ夢を見たんだ」
 「へえー、どんな夢かな。いい夢かな」
 「俺、ジュピターと高い山に登っているんだよ。そしたらそこで和尚さんが碁を打っているんだ。もっと上まで登れば、大空名人に会えるから、俺和尚さんに一緒に登ろうよと言ったら、和尚さんが『和尚さんはここまでしか登れないから後は宙太一人で登りなさい』と言ったんだ」
 「へえー、そうか、そんなこと言ったのか」
 「でも、一人で登るのって苦しいよね。二人の方が楽しいよね」
 草心は笑っているだけだった。

 そう言っているうちにテレビが始まった。
 司会者が言った。
 「本日は大空名人と日之輪教授にお越しいただきました。大空名人の初めての打ち碁集の出版を記念いたしまして、大空名人と日本を代表する哲学者でいらっしゃいます日之輪教授のお二人で、囲碁の世界の事をお話いただきたいと思います。まず初めにお二人のご紹介を、司会の私のほうからさせて頂きます」
 「大空海道名人は囲碁界の人だけでなく、囲碁を知らない人でも良く知っている不敗の大名人です。30歳の時、思う所あって、1年間囲碁界から去り山にこもって修行されました。復帰後の第一局の敗戦を最後に今日まで28年間、負け知らずの500連勝中であります。囲碁界の強い要望もあり、この度打碁集が出版されることになりました。名人の実績からして、遅すぎる出版でした」
 「日之輪教授は日本を代表する哲学者です。ノーベル賞に哲学部門があれば、日之輪教授を置いて他には無いと言われている人です。ご専門の他にも数学、農学と幅広い分野に深い造詣(ぞうけい)を持っておられます。またご自身の趣味であります囲碁に関しては特に強い情熱を持っていらっしゃいまして、囲碁学はすべての学問に勝るとおっしゃる程です」

 「大空名人、この度は打碁集の出版大変おめでとうございます。名人の実績からして、初めてということに驚いています。遅すぎる出版と言われていますが、この辺の所、名人に何か特別のお気持ちがおありだったのでしょうか」司会者が言った。
 名人は少しはにかんだ様な笑みを浮かべながら「そう言っていただくのは大変光栄に思います。しかしこの度の出版にいたっては、本当にその価値があるかどうかと言うことに随分迷いがありました。人様に自分の作った作品を見て頂くことは嬉しくもあり、またそれに反して恥しい思いがどうしてもぬぐえなかったからです」

 「500連勝なさっている名人がご自分の打碁が恥しいとは、ご謙遜はあるにしても私達には中々理解できかねることですが、日之輪教授は名人のお言葉をどの様にお感じになりますか」
 司会者が言った。
 日之輪教授は静かな笑みを浮かべながら呼吸を整えるようにゆっくりと話し始めた。
 「名人の言葉は決して謙遜ではなく名人の正直なお気持ちだと思います。我々凡人は500連勝という勝ち負けばかり見ているからそう思うんですよ。名人は勝ち負けより当然の事ながら、内容を重視されている訳ですよ。誤解のない様に付け加えますが、内容が低いとか悪いとか言っているのではないですよ。私は今までたくさんの名人の棋譜を拝見して勉強させてもらいました。そして感ずるのは、名人は勝負の意識を超越(ちょうえつ)して碁に向っておられるということです」
 大空名人は黙って、おだやかな表情で伏目がちに聞いている。
 「勝つ事が目的でないとすると、何を目的とされているのですか?」司会者が両方に尋ねるような顔でどちらから発言してもらうか迷った感じで言った。

 「名人のお人柄からしてご自身では少し言いづらいかもしれませんので、私のほうから言わせてもらいますが」日之輪教授が言った。
 「何が目的か、と言う問いに対してはその前に碁とはなんなのかと言う事を言わなければなりません」
 「はい、碁とはいったい何なのか」司会者がどうぞ続けて下さいと言った口調だった。
 「碁が他の芸術、絵や音楽や陶芸などと決定的に異なる所は二人で創り上げるものであるというところですね。そしてひとつの作品には勝ち負けが付きものです。そう言った意味ではスポーツや武道と同じとも言えますね。しかしスポーツや武道と決定的に違うところはすぐれた身体機能は特に必要無いと言うことです。100パーセント近く頭脳の働きですね。その意味では絵や音楽と同じです。あえて頭脳と一口に言いましたが、この頭脳こそがここでは問題なのですよ」
 「そうですね」名人はあいづちを打った。
 名人は続けて「頭脳は理性、これは考える力そのものです。精神、さらに心と言った具合に曖昧模糊(あいまいもこ)として、上手く表現するのが難しい点が多いんですよ。これは正に日之輪教授の専門とするところですが」
 「今名人がおっしゃられたことは、結局は私と同じ考えでいらっしゃると思いますが・・・」
 そう日之輪教授は前おきして「碁を打つ時、理性だけで打つのであれば、また打てるのであれば、難しい問題じゃないんですよ。勉強すればどんどん強くなるし、名人の棋譜だって強くなった人は皆良く理解できるわけです。でも逆にそうだとしたら、碁とはそれ程魅力的な遊戯(ゆうぎ)じゃないんですよ」

 「えっ、今教授は遊戯とおっしゃいましたか、碁は遊戯ですか」司会者はビックリして両者の顔を交互に見た。

 つづく