翔べ宙太(みちた)!37  美徳 散りぎわの美しさ


 琢也はじっと碁盤を見つめていた。
 見つめていた顔が少しずつうなだれていって、じっとうなだれたまま動かなくなった。
 観客は皆琢也を見ていた。
 ひざの上に置いた手の甲の上に、ぽとり、ぽとりと涙が落ちた。
 『自分の碁が打てなかった』琢也は悔やんでいた。
 『相手を甘く見ていた』負けるわけが無いという過信と負ける訳にはいかないというあせりが、琢也の平常心を乱していた。
 そのことに自分でも気がついていた。
 琢也は力なくそっと次の手を打った。
 それを宙太はじっと見た。腕組をしてじっと考えていた。

 宙太が次の一手できっと止めを刺すに違いないと皆は思っていた。
 宙太は動かなかった。
 琢也はじっとうなだれたままだった。
 「負けました!」宙太は大きな声で言った。
 「有岡君、強いね。この石どう打っても死なない。俺負けたあーへへへへー」
 宙太は頭をかきながらくったくの無い笑顔で言った。

 「宙太」草心が言った。
 観客の皆もあっけにとられた表情で「どうした、どうした、何でだ」とあちこちでざわめいていた。
 草心はもしかして宙太が琢也に同情して、自分の負けにしたのかと思っていた。
 「宙太、この石は死んでいないのか」そう言って白石の一団を指差した。
 草心にはどう打っても死んでいるように見える。
 「うん、この石はこう打つでしょ、そうするとこうなって・・・・」そういいながら、宙太は10手ばかり一人で並べだした。
 「そうするとこの手があってね、どうしても生きているんだよ」
 そう言って宙太がその図を作ると「ああーっ」皆から大きな声がもれた。

 「えーっ」草心も驚いた。
 それは誰も気がついていない手であった。
 一見筋悪の悪手に見える手であった。草心や琢也の様に筋のいい強い打ち手には、時に気がつかない手であった。
 その手を発見している宙太は投げたのだった。

 草心は深いため息をついた。
 『何という子だ、この子はなんという子だ』その読みの深さもさることながら、勝ち負けに執着しないその心、そしてその手を相手も分っているはずだから、潔く負けを認めるその正直な心に、草心はただただ圧倒されるばかりだった。
 「有岡琢也君の中押し勝です」渡辺が言った。
 琢也は真っ赤な顔をして、宙太を見ていた。
 宙太はニコニコ笑いながら「有岡君、強いね。俺また和尚さんに教わってくるから、また打ってね」
 琢也は黙ってうなずいた。負けたと思った。
 琢也は1局の碁に二度負けたと思った。
 琢也にも初めてのよい経験だった。
 世の中にはすごい子がいるものだと思った。

 帰りの道すがら、草心は宙太に尋ねた。
 「宙太、あの局面で宙太は投げたけれども、もう少し打てば状況が変わって勝てるかも知れないと思わなかったかい」
 「うん、琢也君は強いよ。途中俺の気がつかない手もいくつもあったよ。だからあの石は琢也君だったらきっと生きるよ」
 「宙太、あの手は、和尚さんも気がつかなかったんだ。あの時、琢也君も気がついていない感じだったな。だからあと少し打ち続けても、良かったんじゃないかな。普通は皆そうするよ」
 「うん、そうしてもし琢也君が負けましたと言ったら、俺恥しいよ。それに父ちゃんとの約束破ることになるもん」
 「えーっ、父ちゃんとの約束と関係あるのか」
 「うん、父ちゃんは正直でいろと言ったんだ。人には嘘はついてはいけない、もっといけない事は自分に嘘をつく事だって言ったんだ。だから、あの時俺は負けたと思ったんだ。だから琢也君が間違って負けましたと言ったら、俺すごく恥しいよ。父ちゃんとの約束は守らなきゃいけないんだ。大空名人だってあの時はきっと投げたと思うよ」
 「そうか、大空名人だって投げると思ったか」
 草心は苦笑した。

 あの碁をあそこで投げるのは草心はもったいないと思った。馬鹿正直すぎると思ったが、それは大人の世界の欲にとらわれた考えと思い直した。
 宙太のそういう正直さ、率直さこそが、宙太の一番の才能に違いないと草心は確信した。

 つづく