翔べ宙太(みちた)!38  音楽の神童 天田明


 琢也との対局以来、宙太の評判は琢也をしのぐほどになっていた。
 今年の県大会は宙太と琢也の決戦になると誰もが予想していた。

 そのような時、東京に一人の少年がいた。
 天田明(あまだあきら)宙太より1つ年上の11歳、5年生。
 父はオーケストラの指揮者、母は声楽家と言う、めぐまれた音楽一家だった。
 生まれた時から、子守唄代わりにクラッシック音楽を聴いていた。
 どんなに機嫌の悪いときでもモーツアルトのセレナーデ(アイネ・クライネ・ナハトムジーク)を聴けば、すぐに機嫌が直るような子だった。

 明が1歳を過ぎたころから、父は明をひざに抱っこしながら、よく碁を並べていた。
 そんな時はいつも、モーツアルトの曲が流れていた。
 父親は囲碁を唯一の趣味としてこよなく愛していた。
 実戦よりも名局を並べて鑑賞することの方が多かった。
 明をひざの上に抱っこしながら、一手一手丁寧に並べて「明、きれいな形だね」とよく話しかけていた。
 時には明が手を出して石を動かすと「明、きれいだね、明は上手だね」と笑顔で話しかけていた。
 そんな時はいつもモーツアルトのセレナーデが流れていた。
 そんな時の明はいつも上機嫌だった。

 その様な日が3歳を過ぎる頃まで続いた。
 よき音楽の環境に恵まれ明はピアノの演奏に類(たぐい)まれな才能を発揮した。
 7歳になる頃には作曲もするようになっていた。
 学校では、天田(あまだ)の名のひびきからアマデウスと呼ばれる程だった。
 父は明が4歳ごろから近くの囲碁サロンへ一緒に連れて行くようになっていた。
 父の隣にちょこんと座ってじっと見ていた。
 その様な事が半年くらい続いたある日、いつもの様に父の隣に座ってじっと見ていた明が、突然「父さん、あぶないよ! この石死んじゃう!」と言った。
 「えっ」と驚いた父はよくよく、そこの形を見ると、明の言うとおりだった。
 父の苦しそうな顔を見て明が助けたのだった。

 その日以来、父と並んで明も碁を打つことになった。
 打ち始めるとメキメキと上達して一年も経たないうちに五段の父と同格にまでなった。
 10歳のときは東京都の大会で決勝戦まで行ったが、相手が6年生で惜しくも破れた。
 今では父が2子置いても勝てない程になっていた。

 最近では、明も大空名人の打ち碁集を並べていた。
 なぜか並べた後は必ずピアノを弾いていた。
 一心不乱に名人の打碁を並べ、その後必ずといっていいほど一心不乱にピアノを弾いていた。
 その様な日がしばらく続いた。
 ある日父親がむぞうさにピアノの上に置かれた楽譜を見た。
 父の知らない曲だった。指揮者の父は大抵のクラッシックはその楽譜を見ただけで理解することができた。
 旋律も楽譜の中から聞こえてくる。
 父はあえて、その楽譜をピアノで弾いてみた。
 『何というきれいな曲だ』シンプルな音の集まりだけど、自然な水の流れの様なモーツアルトの旋律を思わせるような感じの曲だった。

 「明、この曲は何という曲だ。父さんは知らないな」
 「うん、僕が書いたよ」
 「明が作ったのか、これはいい曲だ」
 「いや、僕が書いたけど作ったのは僕じゃないんだ」
 「えーっ、明じゃなかったら、明の友達に作曲する子がいるのかな」
 「友達じゃないよ、大空名人だよ」
 「えっー、大空名人って、あの囲碁の大空名人のことか。碁は父さんも好きだから大空名人は知っているよ。でも大空名人が作曲するなんて聞いたこと無いな」
 「うん、そうじゃないんだ。僕大空名人の打碁いつも並べているけど、並べているうちに曲が流れて来るんだ。頭の中に、それをただ楽譜に移しているだけだよ」

 父親はじーと明を見ていた。
 明は父の目を見て「どうしたの父さん」
 父は我に返ったように「そうか、大空名人の棋譜を並べて曲が流れてきたのか、そうか」
 「うん、今まで書き写した曲がまだあるよ、ちょっと待ってて」
 そう言うと明は2階の自分の部屋へ走って行った。
 そして40〜50枚もあろうかと思われるほどの楽譜を持って来た。
 「今までにこれだけ書いたんだ。20曲あるよ」
 父は驚いた顔で一枚一枚をゆっくりとめくりながら、見ていった。
 そして深いため息をつきながら「明、これ全部大空名人の棋譜をうつしたのか」
 「うん、そうだよ。父さん、きれい、きれいにできている?」
 「うーん、きれいだ。どれもきれいな曲だ」
 「まだ、大空名人の棋譜はいっぱい残っているよ。だからもっと、もっときれいな曲が出来てくるかもしれないよ。楽しみにしていて」
 「うーん、母さんは知っているのか?」
 「母さんにはまだ、見せていないよ。だって母さんは僕が碁を打つのを余り好きじゃないみたいなんだ。いつもモーツアルトを弾きなさいって、うるさいから母さんのいないときにいつもやるんだ。母さんには内緒にしててね」
 「うん、分った、分った」父は苦笑した。
 「父さんは明の気持ちは分ったから、続けなさい。そして大空名人の曲をたくさん作りなさい」
 「うん、ありがとう、父さん。本当は僕、父さんにも怒られそうで、心配だったんだ。でも安心した。明日から心配しないで思いっきり作れるね。母さんのいないときにね」

 父は窓に目をやり遠くを見ていた。
 紗羅(しゃら)の木のさわやかな緑の葉がそよ風にさらさらと揺れていた。
 父は遠い昔を思い出していた。
 明を抱っこしていたのはつい昨日のことのような気がした。
 「もう十年も経ったのか」一人つぶやいた。
 『この子は私を越えるかもしれない』そう思った。
 嬉しい気持ちより、ふと空恐ろしいような気持ちになり、身震いした。

 「明、今度の子供大会は勿論出るのかな」
 「うん、今度は絶対優勝するよ。大空名人の碁はすごいよ。たくさん並べてるから前より強くなっていると思うんだ。この前の人は卒業していないから、先生も今年は大丈夫だって言っていたよ」
 「そうか、でも世の中は広いからな、どんなすごい子が出てくるかも分らないぞ。油断しないことだ」
 「うん、分った」

 明の音楽の才能は囲碁に触れる事により明らかに伸びた。特に大空名人の棋譜を並べ鑑賞することにより、爆発的に開花した。
 「しばらくそっとしておこう」父は色々、外部からあれこれ言うよりも、しばらくは明の思うにまかせて、じっと見守ることの方が良いと思った。

 つづく