翔べ宙太(みちた)!46  心を空っぽにして


 草心はさすがと思った。二段コウの読みきりといい、その仕掛けのタイミングのよさといい、草心は宙太の碁の力以上に、それまで良くたえた宙太の精神に感服した。
 そのような時、草心の後ろで、先ほどからじっと宙太の碁を見ていた二人の男がいた。
 先ほど草心がいなくなったのは、校長先生と日之輪教授に別室で挨拶をしていたのだった。
 たまたま日之輪教授が福岡での講演に来る事になって、友人の校長先生に連絡があり、調度良い機会だから、宙太に会おうと言う事になったのだった。

 日之輪教授と校長先生は顔を見合わせた。そして二人同時に真剣な顔でうなずいた。
 「なんと言う子だ」二人の目がその様に語っていた。

 下岡は明らかに動揺した。しかし子供とはいえ多くの場を踏んできている少年である。プロをも目指そうかというほどの子である。動揺しても一挙に崩れるような少年ではなかった。
 下岡も耐えながら、一手一手丁寧に打っていった。
 宙太は無心で打った。いつしか勝ちたいと言う意識はどこかへ飛んでいってしまっていた。
 一手一手最善を信じる手を積み重ねていった。
 やがてコウは白が勝つことになり、黒がコウの振り代わりで形勢は全くの不明となった。
 宙太は迷いが無かった。全力を出し切った。
 下岡は、この碁を負けるのか、スミの二段コウを読みきっていなかった自分の油断に心がとらわれていた。そのわずかの差が出た。
 「終わりですね」下岡が言った。
 「ハイ、終りました」宙太が答えた。
 審判員が慌ててかけよって来た。
 周りがざわめいた。「どちらが勝ったんだ」静かに二人は作り始めた。
 両脇には山の様にアゲハマが碁笥の蓋の上にのっている。
 「細かい?」「細かいね」「半目?」「1目半?」周りの大人たちが色々な事を言い始めた。
 作り終わった。

 二人はじっと碁盤を見つめていた。下岡が頭をかかえてスミを指差して「ここがー」と言った。「はい」と宙太は答えた。
 「力田君強いね。今まで君のこと全然知らなかった」下岡が言った。
 宙太はニッコリ笑って「ヘヘヘヘー」と言って頭に手をやった。
 「盤面黒7目、コミ6目半を引いて、黒半目勝です」審判員が宣言した。
 同時に、見ていた一人の人が拍手をした。その拍手が二人、三人となり、周りにいた20人を越す大拍手に変わった。
 日之輪教授と校長先生も大きな拍手を送った。

 草心はそっとその場を離れた。会場の端の方へ行って、外を見た。
 外は夏の午前中の強い日差しがまぶしかった。
 あの子は本当に人をハラハラさせる子だ。しかしそれでもいつもぎりぎりの所で踏ん張って乗り切っている。不思議な力をもっている。
 神様は本当に宙太の事を見ているのかもしれないと、草心は思った。
 顔から滲み出る汗をタオルで拭いた。そのままじっと目頭をおさえていた。

 2回戦から準決勝の4回戦までは、宙太は存分に力が出せた。特に2回戦と3回戦は手合い違いの感じがあった。
 宙太と反対の山では、もう一人の優勝候補の小山が順当に勝ち上がり、4回戦を有岡と対戦していた。
 草心は小山の碁をしっかりと観察した。
 子供ながらも、気合のいい早打ちで直感力が鋭かった。
 今までの相手はその迫力に圧倒されて小山に振り回されて、自分の碁が打てないまま、ずるずると負けるパターンが多かった。ただ戦いになった時の正確な読みの力は宙太の方が勝っていると思った。
 有岡は地をしっかりと確保して、乱れない様に打っていた。
 草心は有岡と小山の二人の顔を見比べた。小山が自信にあふれた顔をしている。有岡は少し緊張しているようにも見えた。
 有岡は顔が少しこわばっている。しっかり打っている分、石の伸びを欠いていた。
 今は形勢不明だが、このまま行けば小山に分があるように見えた。

 早々と準決勝を勝った宙太は、新しく友達になった子、3から4人と、子供同士くったくの無い様子で話をしていた。
 「力田君は強いね。いつもどんな勉強しているの?」一人の子が言った。
 「俺、和尚さんといつも打っているよ。それと大空名人の打碁を並べているんだ。並べながら和尚さんと検討するよ。俺だったらどう打つかってね。どうして名人がその手を打つかってね。その手を打った時は、何を考えていたかってね」
 「俺も同じ様な事やっているけど、なかなか強くならないよ」
 「力田君のやり方とどう違うのかな」
 もう一人の子が言った。

 その様子を近くで見ていた日之輪教授と校長先生が話の中に入ってきた。
 「やあーみんな、ちょっと私達も話の中に入ってもいいかな」日之輪教授が言った。
 「あっ、あの時の先生、あっー校長先生も、こんにちは」宙太が言った。
 「宙太君、頑張っているね」校長先生が言った。
 「宙太君、こんにちは、私は日之輪といいます。校長先生とは昔からの友達だよ、よろしくね」日之輪教授が話し始めた。
 「さっきちょっとみんなの話を聞いていたんだけど、とても大事なことをみんな話していたね。強くなる為の方法は色々あってみんな違うんだ。自分に合った方法を見つければいいよ。でも、1つだけ絶対に大事な事があるんだ。それは何だと思う、みんな解かるな? これが解からないと、いくら頑張って勉強しても仲々身につかないんだよ」
 子供達は「うー」と言いながら、首をかしげながら、じっと教授の次の言葉を待っていた。
 「それはね、心を空っぽにするんだ。心を空っぽにして、今、瞬間勉強している事に集中することなんだよ。簡単な事だよ、でもね、これが仲々出来ないんだよ。なぜ、上手く心を空っぽにする事が出来ないと思う?」
 また子供達は「ウーっ」と言って、首をかしげていた。
 教授は続けた。
 「みんなは自分の思ったことと違って、先生やお父さんやお母さんが、こうだよと言った時、そうじゃないよと思うだろ。そして、自分が間違っていても、それは、何々だったから、何々したんだよ。だから自分のせいじゃないんだよ、とか思うだろ。碁盤の上では黒石と白石が戦う訳だけど、正しい考え方があるんだよ。自分が間違えた考えをしていたら、正しい手は打てないね。だから、日頃から、家でも学校でも素直に心を空っぽにしておけば、いいことはどんどん入ってくるけど、自分の気持ちばっかりで、いつも心がいっぱいだと新しいことが入って来ないんだよ」
 「その様な心がけが碁だけじゃなくて、全部につながるんだよ」

 その時草心の声が聞こえた。
 「宙太、ちょっとこっちにおいで」
 「はい、先生、和尚さんが呼んでいるので俺行きます」
 そう言って、草心の所へ行った。決勝戦の相手が決まったのだ。
 日之輪教授が言った。
 「みんな、力田君とどう違うのかなって言ってたよね。力田君は心が空っぽなんだよ。例えばね、勝ちたいとか、人に良く思われたいとか、人より良い点数が取りたいとか、そんな気持ちが全く無いんだよ。いつも目の前の事に一生懸命なんだよ。気持ちが真っ直ぐで、空っぽだから、新しい事がどんどん入って行くんだよ。だからみんなもそうすれば、碁だけじゃなくて勉強だって、どんどん頭に入ってゆくよ」
 「みんな、出来るかなー」日之輪教授が言うと、子供達は「へへへへ−」と笑いながら頭をかいていた。

 草心は宙太を呼んだ。「宙太、決勝の相手が決まった」

 つづく