翔べ宙太(みちた)!D  宙太、囲碁と出会う


 宙太がゴンをやっつけた噂は、たちまち学校中に広まった。
 あのおとなしい、大きな声すら出したことのない宙太が、学校一の悪をやっつけたのだから、生徒の間だけじゃなく先生たちの間でも話題にのぼっていた。
 子供たちの宙太に対する態度もそれまでとは打って変わって、みんなが一目置くようになっていた。
 それまでは、休み時間にもほとんど遊びに誘われるような事もなく、いつも一人でぼんやりと遠くを見つめていることが多かった。
 しかしあの日以来、みんなが宙太に声をかけるようになった。特に学級委員長をやっている柴田映子は、何かにつけて宙太に声をかけ関心を引くような態度だった。
 みんなが厄介者に思っていたゴンとその子分2人は、あの日以来、全く存在感のないものになっていた。そのせいかクラス全体がのびのび活気づいたようであった。

 宙太はちょっとした英雄だった。
 宙太自身は今までと特に変わったこともなく、あまり騒がず大人しいままだった。
 みんなから「みっちゃん、みっちゃん」と何かにつけて声を掛けられることには悪い気はしなかったが、時にはうるさいなという気持ちもあった。
 一つ宙太の態度で今までと違ったことといえば、授業中に発言を求められた時は声が大きくなっていたこと。そして友達とのやりとりも、相変わらず言葉は少ないが、ハッキリと自分の気持ちが言えるようになっていたことだった。

 和尚さんに面倒を掛けてしまった御礼を言いに行きなさい、と母親に言われていた宙太は、学校から帰ってカバンを置くなり、用意していたカステラの小さな包みを持って出ていった。
 「ジュピター来い」
 宙太はジュピターを連れて走り出した。
 学校の方向とは反対の木のこんもりと茂った所に天道寺というお寺がある。そこの和尚が秋月草心(そうしん)。先日の事件の時、いち早くその場をおさめ、学校の担任や校長先生にも事情を話し、後日に問題が尾を引かないようにと双方の親を呼んでキッパリと決着を付けていた。
 そんなところが、町ではみんなから信頼され、いろいろな相談相手にもなっていた。

 お寺が見えてきた。宙太はジュピターと競争するかのように境内の中へ走りこんで行った。
 「和尚さ〜ん!」宙太が叫んだ。
 「おお、来たか」縁側で碁盤を出して、草心は棋譜を並べていた。
 草心はかなりの打ち手である。若い頃に熱心に勉強し、県の大会に出て代表になった事もある。
 宙太は目ざとく碁盤と碁石を見た。宙太にとっては初めて見るものであった。
 「和尚さん何してるの?」と言って碁盤を覗き込んだ。
 「あっー」宙太は声を上げた。
 「和尚さんも研究をしてるの?」
 「そうだよ」草心は碁の研究を言われたと思った。
 「へー、和尚さんも星が好きなのか。あ!ここに双子座があるね。ここにぎょしゃ座があるね。あれーでも少し変だよ、双子座とぎょしゃ座はこんなに離れていないよ。すぐ側にあるんだよ」
 宙太は目を輝かせながら並べられた碁石を見つめていた。
 そのうちに石を動かし始めた。
 「この石がここにあると、しし座になるよ。この石をここに動かして、1つここに石を置くとヘルクレス座になるよ」
 草心は宙太がかってに石を動かしていることに注意するのも忘れて、ポカーンとした顔で、この子はいったい何を言っているんだ、という表情で見つめていた。

 「おや、ミーちゃん来てたのかい。この間はすごかったんだって。私しゃ聞いてうれしかったよ。あのひーたれこいてたミーちゃんがゴンをやってけたなんてねー」
 草心の母親で今年80才になるリマ婆さんが、猫のエサを持って腰をかがめてヨタヨタと母屋から出てきた。
 「ミーおいで、ご飯だよ」飼っている猫を呼んでいる。
 「婆ちゃん、俺ミーちゃんじゃないよ。みちただよ」
 リマ婆さんの発音は少しロレっていて、ミッちゃんと聞こえないで、宙太にはミーちゃんと聞こえる。猫の名前と同じなのが嫌だった。
 縁の下で昼寝をしていたミーが、婆さんに呼ばれてボーとした寝ぼけ眼でニャーニャーと鳴きながら、モタモタと歩いて出てきた。
 南側の少し離れた縁の下に行儀良くチョコンと座っていたジュピターが、突然出てきたミーにビックリしてワンワンと鳴いた。
 ミーは全く予期していなかった背後からのイヌの声に「ギャー」と鳴いて驚いた。同時に1メートルほど飛び上がって、縁に跳ね上がり、さらにジャンプして碁盤の上をけって部屋の奥へ逃げていった。
 一瞬の出来事で、宙太と草心とリマ婆さんは、三人とも「あっー」と三様の驚き顔で、ぐしゃぐしゃになった碁盤の上とまわりに散らかった碁石と、ミーが逃げていった奥の部屋を交互に見ていた。
 「あーあ、やったなあー」と草心。
 「ジュピター、ほえるんじゃない」と宙太。
 ジュピターは宙太に叱られて、うなだれて「キューキュー」と鳴いた。

 草心はまわりに散らかった碁石を拾い始めた。
 「和尚さんごめんなさい、俺が元通りにするよ」
 宙太は、草心が地面に落ちた碁石を拾い終わる間にバラバラになった石を並べ、草心の石も受け取って、「和尚さん、終ったよ」と言った。
 草心は宙太が何をしていたかよく見ていなかった。
 宙太は「やったよ」と言って、ニコニコしていた。
 「終わったと言ったって、でたら目に並べてもダメだぞ」草心は少し強い口調で言った。
 草心はそう言うなり碁盤の上に並べられた碁石を見た。
 じっと見て、しばらく動かなかった。そして、次にまじまじと宙太を見た。
 「ごめんなさい、和尚さん。元通り並べなおしたよ。研究の邪魔をしてごめんなさい。でもジュピターを怒らないでください」
 宙太は草心の顔つきを見て、草心が怒っていると思った。
 「いや、いいんだ。いいんだ。怒ってないよ。宙太はーー覚えていたのか!?」
 「うん、さっき見たでしょ」
 「見たといっても、ほんのーー2、3分だぞ!? 150手もの石の配置を全部覚えてんのか! 宙太は囲碁を知っているのか?」
 「エッ!? 囲碁ってなあに? 和尚さんはさっき星の研究をしていたんでしょ? 俺いつも星を見ているから、わかるんだ」
 「星の研究じゃないよ! これは囲碁って言うんだ」
 宙太は何のことか分からず、きょとんとしていた。