翔べ宙太(みちた)!57  神童、天田明の棋風


 めいめい自分の番号の席を探して動き始めた。
 少年はさっと振り返るとそばに立っている草心には一瞥(いちべつ)もせず、ふーと風が動く様に立ち去っていった。
 草心はその少年の後姿をじっと見ていた。
 「神の子」という言葉が草心の脳裏をよぎった。
 「気後れするんじゃない。冷静にしっかりと観察するんだ。宙太だって天田に負けない器なんだ」
 草心は自分の心を奮い起たせた。

 席についている少年のそばに行った。
 一番天田明と書かれた紙が横においてある。
 「やっぱり」と草心は思った。
 トーナメント表の一番目に天田の名前が書いてある。
 誰もが予想する優勝候補NO1なのだ。

 1回戦が始まった。天田はかけていたヘッドホンをゆっくりとはずし、脇に置いたバッグの中にしまった。
 握って天田の白番になった。
 天田は相手のペースに合わせ淡々と打ち進めていった。50手ほどで大勢は決した。
 1回戦から順当に4回戦まで、危なげなく勝った。
 この辺りでは、相手と力に差がありすぎるので、あまり参考にはならないと思ったが、天田の棋風はしっかりと感じ取った。
 無理をせず、風の様に水の様に流れてゆく。一見平凡な手の連続に見えるが、大勢はいつも一歩リードを保ちながら打ち進めてゆく感じであった。

 昼食を挟んで、午後からはベスト8の戦いが始まった。
 天田は当然の様に勝ち進んだ。
 黒を持てば、盤面で10目前後、白を持てば盤面勝負のどれも僅差の勝利ではあったが、覆(くつがえ)しようのない常に一歩リードしたうち回しだった。
 相手が強く出れば、強く、穏やかな手には穏やかに、まるで二人で舞でも舞っている様な風だった。

 決勝戦でも、少しの気負いも無く、相手もかなりの打ち手には違いないが、天田にかかってはなすすべも無く力が吸収されて、天田の石に魅了されたようにただ石を置かされている感じであった。
 草心は初めてであった。この様な相手と碁を打ったことは勿論、見たことも無かった。
 「何と洗練された碁だ」草心は思った。
 相手との距離を一定に保ちながら、相手の石の流れに逆らわずまるで歩調を合わせるように打ち進めながら、いつの間にか大きな流れの中に、相手を飲み込んでしまう様な、そんな打ち方だった。

 草心はぼんやりしていた。
 ぼんやりとしたまま、天田の石の流れを思い出していた。
 会場には優勝者を告げる審判長の声がひびいていた。
 「東京都代表が決定しました。銀杏ヶ丘小学校5年生、天田明君です」
 「皆さん、拍手をお願いします」
 ぼんやりしている場合じゃないんだ。草心は決勝戦の棋譜を書き始めた。

 会場は既に大半の選手とその父兄は帰ってしまって、ガランとしている。
 草心は片隅のテーブルで一心に棋譜を書いていた。
 手短に表彰式も終わり、会場には関係者数人が後片付けを始めていた。
 草心は目をつむって、必死に思い出していた。
 200手を越えた辺りの大寄せに入った所での、手順がどうしても思い出せない。
 その時の天田の姿を懸命に思い出そうとしていた。

 「草心和尚さんではないですか」
 やさしい響きの声がした。
 瞑想するかのように一心に天田の姿を思い浮かべていた草心は、瞬間心の中でその声が響いたと思った。
 そのまま動かなかった草心に再び「草心和尚さんですよね」背後から暖かい人なつこい響きの声がした。
 草心はハッと我に返ったように振り向いた。
 草心の身体に触れるほどに一人の少年がニッコリと微笑んで立っていた。
 「天田君、天田君だよね」
 草心は慌てたように言った。
 「天田です。先ほどお会いしましたね。やっぱり草心和尚さんでしたか」

 つづく