翔べ宙太(みちた)!E  草心の驚き


 150手もの石数を数分見ただけで、その並びを全部覚えるとは、碁を知っていてもかなりの打ちて手でないかぎり、出来ないことである。
 それを碁を全く知らない子供がやってのけるなんて、そんな事があるのだろうか!?
 草心はただあっけに取られるだけで、言葉が出なくなっていた。

 5時を知らせる町の公民館のチャイムの音がかすかに聴こえてきた。
 「あっ、5時だ! 帰らなきゃ」宙太は縁から地面にとび降りて、足の裏をパタパタ手ではたきながら靴をはくやいなや、
 「和尚さん、さようなら」
 「ジュピター来い」と言って、走り出した。
 縁側においてあった包みを草心は手にとって、
 「みちた、忘れ物だぞ、ほら」と言いながら高くその包みを上げた。
 宙太は振り向きながら、「あっ、母ちゃんがこの前のお礼に、和尚さんにあげなさいって」
 そう言って走り去っていた。

 草心は宙太の走り去る後姿が門から消えると、再び碁盤をまじまじと見つめていた。
 この前のゴンとの事件といい、そして先ほどの出来事。
 草心は二つの出来事をくりかえし思い出していた。
 そして再び、走って出て行った、薄暗くなった門を見つめながら、
 「あの子は何か途方も無いものを持っている」
 草心はうめくようにつぶやいた。

 リマ婆さんと二人で暮らしている草心は、夕食の時、
 「かあさん、宙太をどう思う? あの子は何か秘めたものを持っているかも知れないね」
 二人はゴンとの事、碁石のバラバラ事件のことを話していた。
 「そうだねー、赤ん坊の時から、人見知りがひどくてね。私が抱っこすると、すぐ泣きべそかいてばっかりいたんだよ。あれほど人見知りのひどい子もいないねー」
 「私が棋譜を並べているのを見て、どうやら星座を研究していると思ったらしいんだ。宙太は星が好きらしいけど、星の位置を覚えたら、碁石の並びまで記憶できるという事は、ちょっとーー?」
 「さあねー、子供は自分の好きな事には大人顔負けの力を出すっていうじゃないか。ゴンとの事でも、ジュピターを助けたい一心で、異常なほど集中したんだよ、きっと」
 「そうだね」
 「あの子はいい目をしているよ。あふれるほどの気持ちが目から飛び出しているよ」
 「母さんもそう思う?」
 「そうだよ」

 その夜、草心はなかなか寝付かれず、ずっと宙太のことを考えていた。
 「あの子に碁を教えてみようか」
 「たまたま特別な記憶力があるだけで、碁の才能とは何の関係もないかも知れない」
 「無理に教えても、嫌いになるだけで、かえって逆効果になるかも」
 草心は、あの異常とも言えるほどの記憶力の可能性を、どうしても試してみないではいられない気持ちになっていた。

 草心は一案を練った。
 子供だから、まず食べ物で誘ってみよう。
 宙太がちょうど帰ってくる頃、宙太の家の近くをたまたま散歩しているふりをして、草心は偶然の出会いを装った。
 宙太の気配を感じて、ジュピターが犬小屋から飛び出して、頭を上げ、後ろ足2本で立ち、前足を盛んに動かしながら、ワンワン吠えた。
 「ジュピター、ただ今。あっ、和尚さん、どうしたの? どこいくの?」
 「いや、ちょっと散歩しているだけだよ。ちょうど良かった。婆ちゃんがね、この間もらったカステラがとっても美味しかったって喜んでいたよ。今度は宙太の大好きな草もちを食べさせたいって言ってね。今作っているところなんだ。これからお寺へおいで」
 「やったー! うん、すぐ行くよ。カバンおいて来るね。ジュピターも一緒でいい」
 「ああいいよ」
 「今度はミーに吠えないようによく言っておくからね」
 「あははは、今日は大丈夫だよ。きっとジュピターが怖くて出てこないよ」

 宙太はお寺の方に向かっている草心の後を追いかけていった。
 寺では、この前と同じ様に、草心は準備良く棋譜を並べて置いてあった。
 それを見て、宙太が今度はどんな反応をするか試したかったのだ。
 並べられた碁石をチラッと見て、「和尚さん、また碁をやってたの」宙太は言った。
 そう言ったきり、お寺の庭をジュピターと走りながら遊んで、いっこうに碁に関心を示さない。
 この前のとき、星座の研究じゃないと知って、一向に興味を示さなくなっていた。
 やがて、リマ婆さんが出来たての草もちを、竹で編んだザルに山盛りにして持ってきた。
 「ミーちゃん、草もち大好きだったね。沢山食べてね。カステラ美味しかったよ。お母さんにそう言っといてね」
 「うん、わっーうまそうだなー! いただきまーす」
 宙太はそう言うなり、一番上の草もちを手に取るなり、ガブリと3分の2ほど口の中に入れてしまった。
 4、5回かんで飲み込んだ。
 すると顔を真っ赤にしながら、「ううー」と言っている。のどに詰まらせたのだ。
 「慌てないでもいいよ、草もちは逃げやしないからさ」
 リマ婆さんは宙太に水の入ったコップを手渡した。
 コップの水を飲み干して、「あー、死ぬかと思った」
 宙太の無邪気な姿に、草心もリマ婆さんも笑いながら、にこやかな表情で宙太を見つめていた。