翔べ宙太(みちた)!77  あの時は、人事を尽くして・・・それは神の領域での出来事だった


 「宙太、久しぶりに1局打とう」
 そう言って草心は掛け軸のところにおいてあった碁盤を持って来て、縁側に置いた。
 そして黙って黒石を引き寄せた。
 「いえ、僕が黒です。師匠に白を持つ事はできません」
 「そうか」
 そう言って宙太の黒番で始まった。
 「久しぶりですね。よろしくお願いします」
 宙太の言葉に草心は小さくうなずいた。

 二人は無言でゆっくりとした等間隔のペースで打っていった。
 まるで過ぎ去った遠い昔に並べた棋譜をなぞっているかの様だった。
 100手も行かないうちに草心は投げた。
 「うーん、強くなったものだ。2子いや2子でも私が苦しい」
 「すべては和尚さんのおかげです。和尚さんには本当に色々と教えて頂きました」
 「いやー、そんなことは無い。私は何も教えていない。すべては宙太が自分で吸収したんだ。何でも自分の力だ。恐ろしいほどの吸収力を持っている。調度ブラックホールの様にね。そこが宙太の力だ」
 「あの頃は宙太がどこまで強くなるか、それが楽しみだった。これからは宙太がどんな精神を確立するか、世界の民族に対して、宙太が確立した共通の精神を広めることができるか、それが楽しみだ」

 「ところで宙太、以前から気になって聞きたいと思っていたんだが」
 「はい」
 「もう5年近くなるかな、あの大会の時、決勝戦の一石君の対局の時に宙太は神様から貰った石を私に預けたんだよね。『和尚さん持ってて』と言ってね。あの時一瞬びっくりして、大丈夫かなと思ったけど、あの時はそれで、本当に不安は無かったのかな」
 「うーん、そうでしたね。そう言われて思い出しました。あの時の印象は『自分の力を全部出すんだ』という思いが強かったと思うんです。神様に少しでも頼る様な気持ちがあると自分の力が全部出ない様な気がしたんです」
 「そうかあー」
 「でも、最近になって、気がついたんです」
 「えーっ・・・・」
 「あの時、最終局でピンチになって、ずい分考えたんです。じっと目をつぶっている時、和尚さんや母ちゃんやリマ婆ちゃん、それに今まで色々お世話になった人や学校の友達とか沢山の人たちが頭の中に浮かんできて、励ましてくれたんです。それで力が湧いて来て、父ちゃんを見た時は全身が熱くなって、力がもう何倍にもなった様な気がしたんです。それで勝つことが出来たんです」
 「そうか、そうだったのか」

 「でも、それだけじゃ無いんです。あの時一石君はハッキリと優勢になったんです。その為にあの時の二人の力の差を考えると、一石君が『もう、大丈夫』と思ったのは無理ないと思うんです。それで一瞬の気のゆるみがあったと思うんですね。それで僕にチャンスが来た訳なんですが、さらにまだ逆転できる局面がその時残っていた、ということが一番の要因なんですよ」
 「うん、うん」草心はうなずいてじっと聞いていた。
 「逆転できる局面があり、一石君の一瞬の気のゆるみがあり、みんなの励ましがあった」
 そういうことの全てが、やっぱり神様の力なんです。あの時は自分の力で勝てたと思いました。それでとっても嬉しかったです。でも今になって考えると、この前の様な逆転勝利だけではなく、色々なことが自分の力だけではどうにもならない様なことがいっぱい重なって、その結果、上手く行くわけですね。そういうこと全てはやっぱり神様の力じゃないかと思う様になったんです」
   「うん、そうか、そうか、そうだね・・・・」
 「・・・・・・・・・・」
 「宙太は大きくなった。自分の信じる所、何所へでも行って来い・・・でも早く帰って来いよ。私がまだ元気なうちにな」
 草心はしみじみと淋しそうに言った。
 宙太は黙ってうなずくだけだった。

 境内の門のそばの松の木の影が長くなっていた。
 「それでは、和尚さん、失礼します。和尚さんに気持ちを聞いてもらって迷いが全部晴れました。本当にありがとうございました」
 「うん、・・・うん」
 草心はうなずくだけだった。
 「和尚さん、さようなら」
 宙太はゆっくりと歩いて境内の門を出て行った。
 草心は宙太の後姿をじっと見ていた。
 あの頃は本堂の縁から飛び降りてジュピターと一緒にかけながら「さようなら」と大きな声で去って行ったものだった。あの時の光景が思い浮かんで重なって見えた。
 草心は胸にぐっと迫るものがあった。目頭が熱くなった。
 松の木がゆらゆらとゆれた。

 つづく