翔べ宙太(みちた)!81  引退試合開始


 対局の当日が来た。
 三人で早い朝食を済ませ、ホテルを出ようとしていたその時「力田さんですね」ホテルのフロントの係りから声をかけられた。
 「電報が届いています」
 宙太はその電報を見てわが目をうたがった。
 じっと動かない宙太を見て「どうした」恵美と草心は何事が起きたかと、宙太の持っている電報を覗きこんだ。
 「父ちゃんの船がー」電報を母に渡した。
 「なんと言うことでしょう、どうすれば、いいんですか」恵美は落胆した目で草心を見つめた。
 それは宙太の父の船が帰ってくる途中、嵐の為に行方不明になっているという内容のものだった。安否は全く解からなかった。

 宙太はじっとうつむいていた。しばし沈黙が続いた。
 「母ちゃん、和尚さん、俺打ちます。今俺たちが父ちゃんの為に出来る事は何も無い。ただ神様にお祈りすることしか出来ない。だから俺は、俺のやる事を全力でやります。」
 「宙太」恵美はすがるような目で宙太を見た。
 「宙太」草心はじっと宙太を見つめた。
 「母ちゃん、父ちゃんは絶対大丈夫、身体も心も強い人だ、嵐に負ける様な人じゃない」
 「宙太」恵美はうなずいた。

 武道館に来た。
 朝から名人と三人の青年を一目見ようと大勢の人が集まった。
 会場には特設の舞台があり、3台のスクリーンが設置されていた。
 遠くからでも三つの碁盤が大写しにされる仕掛けになっている。

 大空名人と三人が入場した。同時に会場は割れんばかりの拍手に包まれた。
 恵美と草心は会場の中ほどにいて、祈るような思いで拍手をしていた。
 一瞬、会場が真っ暗になった。
 次の瞬間、大空名人にスポットライトが当たり、女性の声でナレーションが流れた。
 「大空海道、25年不敗のまま、5つのタイトルを全て返上し現役を退きました。それもすべては今日この日の為です。さかのぼること5年前、三人の奇跡の少年が現れました。
 三人の少年は、今なお色あせず語り継がれる1つの伝説を作りました。その後、今日まで三人の少年は5年の歳月を経て、立派なりりしい青年に成長しました。一人の棋客となった大空海道氏は、今まさに、生涯最強の時と自ら見極め、過ぎ去ろうとするその一瞬の時に、三人の青年と相まみえ燃えつきるまで競い合うことを選んだのです」

 「一石有斗、17才」ナレーションと同時に一石にスポットライトがあびせられた。
 「天田明、16才、力田宙太、15才」
 同じ様に次々にスポットライトがあびせられた。
 「大空名人をして奇跡の天才と言わしめた三人が再び、皆様の前に揃いました」
 会場が一斉に拍手に包まれた。同時に会場が明るくなった。
 「対局に入る前に一人ずつ、今のお気持ちをお伺いしたいと思います」
 「まず、大空名人、いや失礼しました、今は一人の囲碁ファンでいらっしゃいます大空海道さんです。今日の日のくることをずっと待っていらっしゃったとお聞きしています。今まさに対局が始まろうとしています。今のお気持ちをお聞かせ下さい」
 「一石さん、ありがとう。天田さん、ありがとう。力田さん、ありがとう。関係者の皆さんありがとう。ここに来て頂いた皆様方、本当にありがとうございます。私はこれから三人の青年と、全身全霊をかけて、渾身の力で打ちます」
 一斉に拍手が沸き起こった。

 「それでは、一石さん」
 「はい、今日の一人に選んでいただいて、大変光栄です。名人の根底にある真理に触れられる様に、全力をつくします」
 「はい、天田さんおねがいします」
 「名人の持っておられる、深くてまだ聞いたことの無い様な旋律を引き出すことができたら、うれしく思います」
 「素晴らしい言葉です。最後になりましたが、力田君お願いします」
 「僕は名人の広さを知りたいと思っています。名人の碁の果ては何所にあるのでしょうか。もし知ることが出来たらすごいことです。でもできないかも知れません」
 「三人の若者に素晴らしい今のお気持ちを聞きました。ありがとうございました」

 「それでは、対局に入りたいと思います」
 「手合いは大空氏たっての願いで、すべて互先で行ないます」
 そう言うと、会場から「ウォー」とどよめきが聞こえてきた。
 不敗の大名人が三人の若者と互先の碁を打つのだ。
 「先番6目半コミだしで行ないます。それでは握って頂きます」
 名人が握って、一石の先番、天田は白、宙太は先番ということになった。

 静かな始まりだった。
 名人の両手はひざの上に置かれ不動の姿勢のまま、局面を見つめる顔だけが右、左と小さく動いていた。
 着手が決まると、さっと1つの石をつまみ、音もなくそっと置いた。
 10手、20手と淡々と進んで行った。
 三人の青年は微動だにせず局面を見つめていた。
 小考しながらでも、それぞれバランスの取れた進行に見えた。

 30手を過ぎる頃、草心はある異変を感じた。
 草心はこの不思議な感覚はなんだろうと思った。三つの碁の一つ一つを見れば、それぞれが調和が取れて均衡を保っている様に見える。
 しかし名人の碁に明らかに異変が起きている様に思えた。
 草心はこれまで、宙太と名人の碁を何十局と並べ研究してきている。名人の棋風は十分に感じて取っているつもりでいたのだった。
 その感覚からは三つの碁、それぞれが途方も無く違って見えたのだ。
 名人はどうしたんだろう。まさか、名人ほどの人が、場の雰囲気にのまれて緊張しているとも思えない。

 草心は進行を見守った。
 宙太の着手や形勢より、名人の打つ三局の1手1手に注目した。
 50手、60手と進行していった。
 草心の感覚は間違っていなかった。
 大空名人はこれまで草心が並べ、研究したどの碁にも無い、全く初めての碁を打っている。
 三局とも全く異なっていた。
 草心はしばしじっと考えた。

 「もしかして・・・」草心はひらめいた。
 草心は1つの仮説をたてた。
 その仮説にそって局面をじっと見守っていた。局面はさらに進んで80手を越えて来た。
 「そうかあー、そう言うことだったのか」
 心の中で草心は深く納得した。
 名人の引退に関して、これまで感じていた謎の全てが一瞬にして氷解した。

 つづく