翔べ宙太(みちた)!82  引退碁に秘められた意味


 宙太の碁は自由な発想、自由な変化の碁だ。
 天田の碁は自然な流れ、美しい形の感性の碁である。
 一石の碁は正確な大局観と緻密な計算の碁だ。
 名人はそれぞれ異なる3局を、相手の土俵の内だけで戦っていたのだった。
 『それは何の為に』草心はさらに思いをめぐらした。
 そして確信した。名人は自らの芸の完成の為に、三つの異なる1つ1つの芸風の向上を目指し、それを統合することにより、自らの芸の完成を目指したのだった。
 その為に今日まで5年間、三人のネットでの対局をつぶさに研究し、自分の力が最高と感じる時に、じかに三人と対局して力を試す必要があったのだ。もし敗れることがあれば、例えどの様な意図があったにせよ、関係者に迷惑を掛けることにもなりかねない事を恐れて、あえて引退し全てのタイトルを返上し、一個の個人として戦うことを選んだのである。

 『自からの芸の完成のために、地位も名誉もさらに経済的利益までも捨ててしまったのか』
 『あなたは何という人だ』草心は小さくつぶやいた。
 『一人の裸の碁打ちとなって、三人の青年と対戦することが、全てに勝ってそれほど大事な事なのか』
 草心はそう思うと全身から力が抜けてゆく様な衝撃を受けた。
 草心の感性は正しかった。
 その様に思って一つ一つの局面を見るとハッキリと理解できた。

 天田と一石の碁はすでに150手を越えていた。
 宙太の碁だけは、まだやっと100手を越えたに過ぎない。名人は宙太との碁盤をじっと見てなかなか打たなかった。苦しそうな表情をしていた。
 宙太は集中していた。
 局面をじっと見ながら微動だにしなかった。
 その姿を草心は見て、父の心配の影響は無いと思った。

 天田の碁は一番進行が早く既に終局近くなってきた。形勢は不明のまま、細かなヨセが続いている。
 一石の碁は200手を越えた辺りで大ヨセに入っていた。この碁も形勢は分からなかった。
 名人も天田も一石も平然としていた。
 三人の表情からは優劣は推し量れなかった。
 しかし、宙太との碁はやっと150手を越えた辺りで、局面は1手ごとにだんだんと複雑になって行った。
 この局面は確かに宙太に有利だと草心は思った。
 名人は宙太の土俵の中であきらかに苦しんでいた。

 天田の碁が終局した。
 名人と天田はじっと局面を見たままだった。やがて名人が「半目ですか」と言った。
 「はい、半目です」と天田が答えた。
 「素晴らしい碁だったね」
 そう言って名人は天田を見つめてニッコリと微笑んだ。
 一石との碁は必死のヨセ合いが続いていた。打ち終えた天田はじっと一石の局面を見ていた。
 名人は少し疲れたのか、時々首筋に手を当てる様なしぐさをしていた。
 一石の手が止まった。
 形勢は不明のままだが、まだヨセを打つ場所が沢山残っている。これからのヨセの勝負に思えた。
 一石はなかなか打たなかった。その間名人はじっと宙太との局面を見ていた。

 益々苦しそうな名人の表情はだれの目にも宙太優勢を思わせた。
 名人の石が宙太の黒の中で死にそうにもがいている。地合いでは名人の方がリードしてはいるが、石が死ねば明らかに負けの局面となっていた。
 『名人の石が死ぬかも知れない、そんなことがあるのか』
 観衆はみんながそう感じていた。
 名人は少し首をひねった。そのまま顔を一石の方へ向けて、一石との局面を見た。
 一石はまだ打っていない。
 一石との局面を見る時は、名人は毅然とした表情に戻っていた。

 天田との碁は終局のままになっている。整地はまだされていない。
 観衆は天田の碁はどちらが勝ったんだ。一石はどうしたんだという感じでざわめいて来た。
 「負けました」と一石がハッキリした声で一礼した。
 名人も小さくお辞儀をした。
 観衆がざわめきだした。「なぜ、投げたんだ」また「まだ形勢が不明じゃないか」と言った声でどよめいてきた。
 「作れば、半目ですか」
 そばでじっと見ていた天田が一石に声をかけた。
 「はい、半目です。どうにも越えられない半目です」

 宙太一人になった。
 大空名人は宙太の正面にしっかりと座りなおした。
 名人の手番である。
 先ほどからもうだいぶ時間が経過している。
 「ビシッ」名人は打った。初めて大きな石音がした。
 宙太は先ほどから読みふけっている。予想していた手だった。
 宙太は確かめるように少考の後応じた。
 その手を見て草心は確信した。
 『宙太は読みきっている』
 あの着手の感じからは宙太に迷いは感じられなかった。
 草心は宙太の勝利を確信した。
 『名人の石を葬るのか、宙太はそこまで大きくなったか』
 草心は心で叫んだ。

 宙太の着手に、名人は「ウッー」と声を出した。
 そして「やっぱり」と小さく唇が動いた様に見えた。
 名人の顔に苦悩の色がハッキリと見えてきた。
 武道館の観衆全員が先ほどの天田と一石の勝敗の事も忘れて、宙太の1局に集中していた。
 『どこか幼な顔の残る青年が、あの不敗の大名人の石を葬ると言うのか』
 特設舞台の一番近くで観戦していた日之輪教授は宙太の成長に驚きを隠せなかった。
 『これほどまでになるとは』
 教授の予想を越えていた。

 場内は静かになった。
 名人の次の1手をみんなが待っていた。
 名人はじーと局面を見ていた。
 心臓の鼓動で肩が小さく揺れていた。

 つづく