翔べ宙太(みちた)!83  引退碁、決着


 宙太は局面を読みきっていた。手数(てかず)は長いが、あと十手で止め(とどめ)を指すことになる。一本道だ。
 宙太は『勝てた』と思った。
 名人の石を取って、自分の一番得意の碁形に持ち込んで、名人に『勝った』と思った。
 そしてふっと顔を上げたその時、名人の苦悩に満ちた表情が宙太の目に入ってきた。
 『とうちゃん』思わず、宙太は声を出しそうになって、手を口に当てた。「ぐー」というのどに詰まった声が出た。
 そこには嵐の時、苦しんで網を引いていた、苦悩する父の顔があった。
 忘れていた遠い日の夢の中の苦悩する父の顔が浮かんできた。
 『とうちゃん・・・』
 それまで集中していた宙太の心に父の安否が大きくのしかかってきた。
 『俺は父ちゃんを助けることができない。どうすることもできないのか』
 『あの時は助けられたんだ』
 宙太の胸にぐっとこみ上げるものがあった。目頭が熱くなった。

 名人は「フッー」と大きな息をした。
 あきらめとも覚悟とも取れる努めて平静にピンと背筋をのばして、スッーと音も無く石を置いた。
 宙太はその石を見た。予想通りの手だった。
 『とうちゃん』宙太は心の中で大声で叫んだ。『もし、まだどこかの海で漂流しているのなら、この早春の海のどこかで乾きと戦いながら耐えているのなら、神様、父ちゃんを助けて下さい』宙太は心で祈った。
 宙太の目に涙があふれぽたぽたとひざの上に落ちた。
 『父ちゃん、頑張れ、・・・・・俺は名人に勝つ』
 宙太は碁盤を見た。黒石を1つつまんだ。局面がゆらゆらとゆれた。  宙太は読みきりの手を「ビシッ」と打った。

 天田と一石は宙太の突然の異変に気がついていた。
 『何が起こったんだ』宙太の心の中に突然何が起こったのか、二人は顔を見合わせていた。
 名人も気がついていた。
 うつむいたまま、ぽたぽたと落ちる涙は、何か異常な事が起きているのは明らかだった。
 名人は宙太の打った手を見て、ハッキリと分かった。
 そして悲しそうな目をした。
 宙太は真っ赤になった目頭にぐっと力を込めて今打ったとどめの石を見た。
 「あっー」思わず、大声を出した。

 名人の顔を見た。
 名人はどうしたものか、戸惑った様な表情をしていた。
 とどめに打ったはずの石が一路ずれて打っていたのだった。
 名人は悲しそうな表情を浮かべたまま、静かに石を置いた。
 「負けました、ありがとうございました」
 宙太はハッキリと言った。
 館内が一斉にどよめいた。意外な結末に「何が起きたんだ、信じられない」と言った雰囲気に包まれた。
 静かに座っている4人の元へ司会者が慌てて来た。
 声が少し上ずっていた。
 「まず、天田君の半目勝ちということでいいでしょうか」
 大観衆から「ウオー」というどよめきが起こった。
 そしてそのどよめきは会場われんばかりの大拍手に変わっていた。
 三面打ちとはいえ、名人に互先で勝ったのだ。不敗の名人として25年間、頂点に君臨してきた大空海道名人が、非公式の対局とはいえ最後の引退記念対局に敗れたのだ。
 司会者は興奮を抑えきれないまま「名人、大変お疲れ様でございました」
 「また、敗れたとはいえ良く戦った一石さん、力田さん大変お疲れ様でした」

 ただ一人勝った天田に司会者はマイクを向けた。
 「天田さん、接戦の末勝たれました。今のお気持ちをお聞かせ下さい」
 天田は黙って碁盤を見つめていた。
 司会者は続けた。
 「三面打ちとは言え、名人に互先で勝った人はここ25年間初めてです。アマは当然、プロもいません。今日は特別の作戦を用意していましたか?」
 「いえ・・」と天田。
 司会者はなかなか言葉が続かない事に少しあせりながら、何とか盛り上げようと必死だった。
 「今日初めて名人と対局されました。名人の碁をどの様に感じましたか」
 司会者は天田に懸命に食いさがった。
 天田はゆっくりと顔を上げて司会者をしっかりと見た。
 そして、そっと右手を伸ばし司会者のマイクを握った。

 「名人に対局頂き、大変光栄に思います。名人の碁に対して私などが何か述べるなどと言うことは大変僭越でございます。しかし最初であって最後のこの様な機会でありますので、私の感じた事を、申し上げさせていただきます」
 会場はしーんと静まりかえっている。
 勝った天田が次に何を言うのか全員が固唾(かたず)をのんで待った。
 「名人の碁は限りなく自然です。風に流れる雲のように、寄せては返す波のように大自然の営みそのものです。私は名人の1手1手に大自然の美しい旋律を聴きました。出来るなら、今日この旋律を楽譜に書き留めたいと思います。私の生涯の一曲となります。名人ありがとうございました」
 名人は黙ってうなずいた。
 会場からわれんばかりの拍手が起こった。

 名人が立ち上がった。
 天田のほうに手を出してマイクを取った。
 そして言った。
 「期せずして揃った奇跡の三人と、今日を最後に去り行く一人の老戦士が、心置きなく戦いました。今日の3局は、私の生涯の三局となりました」
 又ものすごい拍手が起こった。

 拍手がなり終わるのを待って司会者が続けた。
 「名人、今日の三人の青年諸君との対局をなされて、それぞれの若者にどの様なご感想をお持ちになられましたでしょうか」
 名人はゆっくりとした動きで「そうですね、三人三様、比較のしようが無い素晴らしい才能の持ち主ばかりです」
 司会者は名人の言葉を沢山聞きだそうとして続けて言った。
 「惜しくも半目負けを読みきって投了した一石君の碁について、名人はどの様にお感じになられましたか」
 「一石君の碁は・・・・」そう言って少し考えるような感じで少し下を向いてから、顔を上げた。

 つづく