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  「無名の挑戦者たち」  GO−NET誕生物語   郷たける


      14 中国へ行く


      今までの困難は努力に比例して解決できた。
 今度の二つの壁は努力だけでは解決できない。大会社の方針がかかわってくるのだ。
 その二社が全くそれぞれ単独に決定するのではなく、お互いがお互いの様子を眺めながら相手が乗り出せば、自社も乗り出そうかと考えるふしがあり、久と徳田二人でどう攻めるか、そこらあたりが二人の課題となった。
 ソフトの改良も進んでいった、特に4月に天才プログラマー西川が入社してからは見違えるほど機能が上がった。 中山一人では、ソフト改良が間に合わないとの思いで4月に一人プログラマーを募集したところ、応募してきたのは千葉県でも有数の進学校を卒業したばかりの西川だった。
 西川は家庭の事情で進学しないとのことで、しかし趣味でやっていたパソコンのソフトの技術がそのまま生かせたらとの単純な理由で応募してきた。
 以前の中山同様プログラミングのテストをしてみた。
囲碁のアタリを教えて、黒に囲まれた白石を画面から消すプログラム作成をさせてみた。
 西川は迷い無くパソコンに向かってさらさらと30分ほどで「できました」と言った。動作チェックをしてみると完璧だった。色々なアタリを作ってテストをしてみたが、不具合が全く無かった。久は驚いた。
 「短い時間で良くできたね、すばらしい」
 「以前学校で、線で囲まれた部分に色を塗るというプログラムを作ったことがあったんです、それと同じ事だと思って作りました」
 久は逆にこれほど優秀な子だったら、何処にでも就職できるだろうと思った。
 マンションの一室を借りているような小さな会社に来てくれるだろうか、と今度は西川の返事が心配になった。
 しかし西川は労働条件も給与も何の条件も付けずに黙って受け入れた。好きなプログラム作りに専念できればそれだけでいいといった全く無欲の青年だった。
 西川の入社によってずいぶんと改良が進んでいった。それまで使ってくれている顧客数人に改良版ソフトを送り旧版と交換を行なった。
 発表してからそれまで約半年の間にほんの6〜7人に売れただけだった。
 その後、久は徳田とさらにひんぱんに会うようになっていた。徳田は夕方5時頃常磐平の久の事務所を訪れ、ソフト改良の進行具合を見にきていた。
 来る時は必ずといっていいほど鯛焼きを5つも買ってきた。鯛焼きを食べながら碁を打ち、時には2局3局と二人は仕事以上に真剣な表情になった。勝負はいつも徳田の方に少し分があった。
 この様に徳田との関係は良好に続いていたが、CSがセンター運営に乗り出す話は仲々進展しなかった。
 久は少しあせったがこの様なことを強引に追求してもいい結果にならないことは今までの経験から理解していた。今はじっとして時の流れをまつしかなかった。
 その様なとき、つき合いのあった五反田の碁会所「秋栄」の山上から一つの提案があった。
 山上が事務局長をしている【日中アマチュア囲碁友好会】から久のソフトをMSXとセットで中国の囲棋協会へ贈呈してはどうかという話が持ち上がった。
 秋栄に指導碁に来ている中国の女流プロ孔祥明八段を通して、当時の中国の囲棋協会のトップ陳祖徳と王汝南へ話が伝わった。二人は受け入れるということだった。
 贈呈ということであればMSXの仕入れ費用から北京までの往復の飛行機代からホテル代まで経費はすべて久が負担しなければならない。
 久は躊躇した。まずその様な行為が日本国内の販売に役に立つだろうかと思った。さらに金銭的にも機械2セットの仕入れから飛行機代、ホテル代迄入れると50万円以上はかかる、そんな余裕は無かった。
 久は迷った。日中親善といっても今の自分にそんなことをやっている余裕があるのか、又売名行為のようにも思えて気が重かった。
 しかし山上は東京の碁会所組合の重鎮である、何かにつけて久は意見を求めていた。その様な人の話をむげに断って今後のつき合いに支障を来すことにはならないだろうかという様な色々な思いが巡った。
 思いあぐねて久は妻に相談した。
 「行けばいいでしょう、あなたは色々迷っても結局はやる人よ、基本的にはいいことでしょう、いいことをやればきっと役に立つ時も来るわよ」意外にもあっさりした返事だった。
 しかし久が躊躇している間に話がどんどん進んで、日本経済新聞の4月30日号に掲載されてしまった。山上が一人で話を進めたのだ。
 「パソコンと電話回線を使って日中間で国際テレビ囲碁対局を・・・と囲碁ファン夢の対局を計画している日中アマチュア囲碁友好会は29日対局用パソコン二セットを北京市の日中囲棋会館(王汝南館長)に贈ることを決めた。
 中国へ贈るのは、千葉県松戸市のアイ・システム(葦原久社長)が開発した囲碁対局用のソフトとパソコンの本体」というものだった。
 記事には囲碁友好会から贈るということになっていた。
 出発は62年6月12日、久は今一つ気乗りしないまま北京へ向けて飛び立った。
 自分には全く不向きなことをしている思いがぬぐえなかったのだ。
 緊張の面もちで降り立った北京空港には人なつっこい顔の王汝南が一人「葦原先生」と手を振りながら笑顔で迎えてくれた。
 翌13日は朝の10時より夜の9時まで昼食休憩一時間を除いてはびっしりと使い方の説明をした。
 10代と思える中国囲棋協会の職員5〜6名がかわるがわる熱心に機械に触った。通訳には大阪の大学に留学経験のある工学博士の唐騰が当たった。
 唐は自分でもPC98で棋譜登録のプログラムを作っていた。唐の通訳のお陰で北京での3日間はトラブルもなく終わったが、この行為が本当に役立つのだろうかという疑問は久の頭から消えなかった。
 しかし中国囲棋協会のNO2にある王汝南は感激していた。
 久が一人で北京まで機械と一緒に行って説明したことを、「今回の小さな友好には大きな意義があります、高い所に立っての贈り物ではなく、遠くから来てくれた友人からの贈り物に私達は感激しました」そう言って感謝の気持ちを表した。
 その時、たまたま囲棋協会を訪れていた、中国政府の要人、日本で言えば文部大臣にあたる人と話をする機会があった。
 「これは夢のある商品です、今中国の通信事情は日本の様には進んでいないが、近い将来きっと中国でも出来るようになるでしょう」そう言って久の行為は素晴らしいと賞賛した。
 又若手の職員の馬さんは「日本人の仕事の仕方を見ることが出来てとても勉強になりました、出来ることなら自分も日本に行ってみたい」そう言った。久は行った価値があったと思った。

 中国への贈呈が功を奏したのかどうか分からないが8月にはソニーからうれしい提案があった。
 上野の松坂屋のイベントに出展してみてはどうか、相手をするもう一方は大阪心斎橋のソニータワービルという話がきた。経費は一切要らないということだった。
 久が大阪に行った。江川が上野松坂屋で説明した。
 松坂屋の方のアシスタントには東京外語大にきている中国人留学生、王さんに頼んだ。
王とは五反田の「秋栄」で知り合っていた、日本語が堪能で、日本語の文法は日本人よりも詳しい秀才だった。
弟の王群は中国のプロ棋士で八段である。
 このとき上野松坂屋には衆議院議員で時の逓信委員長の深谷議員が見学に来た。62年の8月6日のことだった。
 まだホストコンピュータを介さず電話と電話での通信対局だった。
 この様な展示会では見学者のほとんどが興味を示してくれた、夢のある商品ということで囲碁のファンならずとも新しい時代を先取りする商品として感心してくれた。
 しかしそれでも相変わらず販売には結びつかなかった。
                                 

                                つづく