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  「無名の挑戦者たち」  GO−NET誕生物語   郷たける


      定まらない日々1


 松戸市の常盤平は緑に包まれた閑静な住宅街だ。
 一駅松戸よりの八柱駅から常磐平、五香と新京成線に沿って、桜並木に覆われるように通りがある。日本の道百選にも選ばれている桜通りだ。4月上旬の桜の季節には桜祭りがあり道に入りきれないほどの人で賑わう。
 その桜通りに面して五香駅よりに五階建ての桜通りハイツがあった。このマンションに葦原が引っ越して来たのは、29歳でリコーを止めてから一年後30才の時だった。
 五階建ての部屋からは緑に覆われた常磐平の街が一望できる、葦原はこの街に一度訪れただけで好きになった。そしてもう一ついい所を見つけた。
 今日は、たまの休みの日、朝からそわそわ落ち着かなかった。明子の顔色ばかりが気になっていた。2才年上の久の妻である。
 ふと、久の視界から明子が消えた。その時、久は行動を開始した。

 「また行くの」久が玄関のドアに手をあて開けようとしたその瞬間、背後から声がした。あたかもその一瞬を待っていたかのごとく絶妙のタイミングで、しなやかななめし皮の鞭が背後から首にからみつくように明子の声が追っかけてきた。
 久は一瞬動きを止めた。
 「あまり遅くならないでね」明子の優しさなのか又あきらめなのか、その声で首に巻かれた鞭がするするとほどけてゆくような感じを受けた。
 その声が終わると同時にドアをぐいっと開けた。外の空気を思いっきり吸い込んだ。
 「『また』はないだろう、今月は初めてじゃないか」久はぶつぶつ言いながらも足取りは軽く、階段を一気に駈け降りていった。

 歩いて2分ほどの閑静な住宅街に自宅の1階を解放して碁会所をやっている石島宅があった。
 ドングリの木が生い茂り子供達がブランコや滑り台で遊んでいる小さな公園のすぐとなりに碁好きな人でないと決して気がつかない様な「碁」と書いた小さな看板がかけてある。
 休みの日はいつもここへ来たかったがそうもいかなかった。今日は久しぶりだ。気負う心を静めて「こんにちは」声をかけながら玄関の引き戸を開けた。一瞬タバコの匂いが鼻についた。
 すでに数人の客が打っていた。

 「やー、若手のホープが来た、いらっしゃーい」
 床の間を背にした一番の上席に座っている鈴本が声をかけた。
 鈴本は誰彼なく声を掛け、自分の相手を見つける。碁打ちとしては珍しいタイプだ。
 ここに来る客の中では三本の指に入る強豪でその席はほとんど鈴本の指定席になっていた。
 久はなかなか鈴本には勝てなかった。
 打ち方が乱暴で非勢となると口八丁手八丁で相手を攪乱するタイプで心理作戦にもたけていた。ほとんどの人はどんな優勢な碁でも最後はガタガタにされてしまうのだった。しかし久は勝負は抜きにして、その様な開けっぴろげの鈴本にどことなく好感を持っていた。案の定今日も酷い目にあった。

 碁を打っていると時間の経つのが恐ろしく早く感じられる。
 1時前に来て、あっという間に5時をすぎてしまった。まだ打ちたい気持ちもあったが「早く帰った方が良さそうだ、ご機嫌が悪くならないうちに」久は明子の表情を思い浮かべた。
 来る時は早足だったが、帰りはなぜか足取りが重い。
 隣の公園では子供達がまだ砂遊びをしていた。
 母親が2人で立ち話をしている。

 この日もうなだれながらとぼとぼと歩いた。
 「この虚無感は何だろう」といつも思っていた。
 たまの休みの日はどうしても碁が打ちたい、妻の目をかすめるようにして家を抜け出し半日碁を打つ。打つときは夢中であっという間に4〜5時間は経ってしまう。
 そして帰るときはいつも空虚な感じがした。
 この感じはどこからくるのだろうといつも碁を打った帰りは思っていた。

 子供達の姿をぼんやりと見つめていた。
 こんなんでいいのか、ともう一人の自分が囁くのだった。
 「いいわけないだろう」大きな声で独り言を言った。
 通りすがりに人が聞けば、頭のおかしなやつだと思われかねないほど大声だった。
 バツが悪くなり辺りを見回した。
 おしゃべりに夢中の2人の母親は久の存在など全く眼中に無いといった風だった。
 「いいわけないんだ・・・・」「じゃーどうすればいい。」


                                つづく