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  「無名の挑戦者たち」  GO−NET誕生物語   郷たける


      定まらない日々2


 昭和46年4月、久は大学を卒業すると、大手の事務機メーカーの(株)リコーに入社した。
 そこで配属された部所はコンピュータの営業部門だった。コンピュータといってもリコーのそれはミニコンと言われるもので500ワードから2000ワードまでのワードマシンと言われる小さなもので、主に中小企業の伝票発行やそれに伴う商品管理や請求書の発行を行うものだ。新発売だった。
 リコーとしても初めての試みの商品だった。
 入社1、2年の新人は「飛び込み」をさせられた。毎日毎日「飛び込み」が仕事だった。
 飛び込みとは不特定多数の会社を約束も取らずに突然訪問することである。運が良ければ総務の課長クラスに話を聞いてもらうこともある。たまには暇な社長がいて、冷やかし半分で話を聞いてくれることもある。
 しかしそれが商談まで発展することは百社に1件位なもので、契約となると更にそれの何分の一かになるのだった。
 展示会を開いてお客様に来て頂いて見込み客を見つける様なスマートなやり方も年に一、二回はあるが、しかしその様な有力な見込み客はほとんどが10年選手のベテランが担当するもので、新人は常に飛び込みで見込み客を見つけるしかなかった。当然売れない日々が続いた。
 久はその様なやり方にすっかり嫌気がさしていた。
 「飛び込む為に大学まで出たのか」その様に自問することは度々あった。
 売れ無かったと言うより売る力がなかったというべきだろう。仕事はもっぱら飛び込みで名刺くばりだった。
 当時は機械がよく故障してお客の仕事が止まってしまうことが多かった。その様な時は久は事務作業の手伝いによく行っていた。
 事務の仕事が任されないときは、倉庫の荷物運びなども手伝っていた。体力には自信があった。しかし日頃やり慣れない仕事は身体にこたえた。
 そんな時は仕事が終わった後、その会社の社長がご馳走してくれることもたびたびあった。
 ご馳走になりながらその社長の若い頃の苦労話を聞いた。ほとんどが自慢話だが、そういう話を聞くことは面白いと思った。
 そしていつか自分も何かで一人立ちできればいいなと漠然と考えるようになっていた。

 昭和52年の4月、リコー福岡支店に所属し販売代理店の福岡リコー販売に出向になっていた。そこで辞表を出した。7年目を迎える時だった。
 飛び込み営業に嫌気がさしていたが、それでもここ2年位は販売力も少しはついていた。
 6人いた電子機器課の売上実績の内、半分位は一人で売り上げるほどになっていた。
 自分より販売実績の劣る上役から色々と指図されることに我慢ならなかったのだ。
 「葦原君先月納入した横山酒店の入金はどうなっている」と直属の杉下課長が言った。
 「機械が故障ばっかりして、まだまともに請求書発行ができていません。ですからずっとここ一週間ほど伝票整理の手伝いに行ってます」
 「いつ入金するんだ」
 「今月は無理です。来月請求書が出せたら、それで検収を上げて再来月の入金となります」
 「入金は納入後一ヶ月と決まっているだろう」
 「お客は機械にお金を払っているんじゃないですよ。仕事の成果に対して払うんですよ。コンピュータはコピーのような単能機じゃないですからね」
 上司との衝突はいつもこんな風だった。
 営業力にも少しは自信が出来てきた。
 しかし後になって、それは看板の力だったと思い知らされることになるのだが。


                                つづく