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  「無名の挑戦者たち」  GO−NET誕生物語   郷たける


      4 パソコンとの出合い


 リコーを辞めてから1年後、仕事を探すために再び東京に単身上京し、粗末なアパートを借りた。数ヶ月で千葉の松戸市に住居を移し、妻と子供達を呼び寄せたが、その後色々な会社を転々とした。
 世の中を広く見たいと言う気持ちがあった。
 本当に自分に向く仕事に出合いたいという気持ちもあった。
 しかし、そういうことはきれい事で、本当のところは辛抱できなかったというべきかも知れない。
 そのことはもっと後になってよく分かったのだが。
 仕事が定まらない4年半の間は、碁を打っても打った後の虚無感がいつも付きまとって気持ちが晴れることは無かった。
 「何とかしなければ」
 その気持ちだけが、つむじ風に吹かれてぐるぐる回る椎の木の枯れ葉のように、焦る気持ちの中で回っていた。

 その様なとき、「葦原どうしている? 会って話したい事がある」電話でそう言ってきたのは、リコーに入社した時の同期の片岡だった。
 片岡は久より3年早くリコーを退社していた。
 片岡の3才上の兄が独立して会社を作り、その兄の仕事を手伝うということだった。
 片岡の兄は、やはりリコーと競合関係にあるコンピュータ販売の大手U社のトップセールスマンだった人で、30才そこそこでの起業だった。
 その後順調に業績を伸ばし今度新事業を始めたので、その新事業の一端をやって欲しいということだった。
 折からパソコンが発売されて間もない時だった。

 当時はマイコンとも呼ばれて、富士通社がFM8、NEC社がPC8000シリーズを発表し、先発のNEC社の方が数社あるパソコンメーカーの内、市場占有率や性能で断然リードしている時だった。
 片岡の兄の経営するPJSは、大手商社三菱商事からの仕入れの関係で富士通のパソコンを取り扱うことになっていた。
 久がリコーのミニコンを販売していた当時からは考えられないほどの進歩だった。
 4年半のブランクは大きかった。
 「無理だと思う、もうコンピュータの販売はできないな、4年以上のブランクは大きい、進歩の激しいこの世界はもう俺の知らないことが多すぎる」久は話をもらったことへの片岡の気持ちは嬉しく思ったが、又飛び込みから始める気持ちにはなれなかった。
 「じゃーお前これからどうするつもりだよ、今のところはヤバイだろう、早く見切りをつけろ、倒産してからでは遅いぞ、給料もらえている内に早く辞めろ」
 片岡の追求は厳しかった。

 久は頭を垂れてじっーと聞くだけで反論できなかった。
 事実その時、久のいる会社は倒産まで秒読みに入っていた。その情報をいち早く聞きつけて片岡は久を説得に掛かったのだった。
 「お前ね、知識なんて関係ねーんだよ、お前の持っている、泥臭い営業をやれば、それに合う客は必ずいるんだよ。どんな営業やっても実績を上げさえすればそれでいいんだよ」
 久は黙って聞くしかなかった。

 JRの新橋駅で降りて烏森口から霞ヶ関ビルの方にまっすぐに歩いて10分、小さな通りに面してPJSのパソコンショップはあった。
 昭和56年12月、久はそこの販売課長という肩書きをもらった。一階がショールーム、二階が事務所で併せて20坪ほどの店だ。
 パソコンの知識にやたら詳しい25才位の若い中原と、22、3才のいかにもショールーム向きの長身の女性と、年のほどは分からないがパソコンの発売当初からいち早く取り扱っていたということで片岡社長に見込まれて、ショップの店長を勤める役員待遇の色の浅黒い小柄な男がいた。久の直属の上司という立場の男だった。
 付き合ってすぐに久は、なんだこの男は、と思った。長く付き合えるとは思えなかった。
 当たりは柔らかいが、何かにつけて「僕なんかはね・・・」「僕なんかはね・・・・」とやたら自慢話が好きな男だった。
 案の定その店長は個性の激しい片岡社長とは折りが合わず3ヶ月もしないうちに辞めてしまった。

 久は突然パソコンショップの店長にさせられてしまった。
 まだパソコンの知識はほとんど無かった。それにパソコンにやたら詳しい中原と若い女性と3人でどうやったら上手くやってゆけるのだろうかと心細かった。それまでは自分の部下とか後輩を使ったことなど経験が無かったのだ。自分一人でやる営業の方が力も入るし、気持ちも自由だった。
 毎月300万の売上という社長のノルマには途方にくれた。
 「秋葉原の量販店には勝てない、パソコンも儲けるためにはソフトと一緒に売らなければダメだ」
 久はその様な方針で中小企業の一部問の事務処理作業を請け負ってハードとソフトをセット販売することでそれでもしばらくは順調に売上を伸ばすことができた。
 しかし今度はそのソフトを作るプログラマーの確保が困難になってきた。しかも一度納めたソフトでも常に完璧というわけにはいかず、不具合が発生したら、その修正にかなりの労力を費やされるのだった。
 そういうことでやがてソフト込みの販売も行き詰まってきた。「どうすればいい」コンピュータ営業から脱出したはずの自分がいつの間にか更に利益を上げるのが難しいパソコンの分野でもがいている自分を発見して久は愕然とした。


                                つづく